この記事では、デヴィ夫人の家系図について調査しました。歯に衣着せぬ物言いで、バラエティー番組に引っ張りだこのデヴィ夫人。なぜ「デヴィ夫人」と呼ばれるのか、本名は何なのか、またハーフだという噂についても調べてみましょう。
デヴィ夫人をバラエティー番組で見る限り、セレブで幸せな生活を送っているマダムという印象がありますよね。しかし、実際には壮絶な生い立ちを持っていました。この記事を読み終わる頃には、デヴィ夫人の印象ががらりと変わっていることでしょう。
デヴィ夫人の家系図を調査!
それでは、デヴィ夫人の家系図を調べてみましょう。まずは一覧表でご紹介し、気になるプロフィールを詳しく解説していきます。
名前 | デヴィ夫人との関係 | プロフィール |
根本兵七郎(へいしちろう) | 父 | 通称:兵七 大工の棟梁。目が悪く仕事がままならない時期があった。 |
根本政子(まさこ) | 母 | 通称:まさ 足が悪く働けなかった。 マスコミの執拗な取材により心労で死去。 |
根本七保子(なおこ) | 本人 | 東京都で生まれ福島県に疎開。 エキストラ俳優や高級クラブ勤務を経てインドネシアへ渡る。 |
根本八曾男(やそお) | 弟 | 早稲田大学出身。 留学を夢見ていたが、母親の死後に自死。 |
スカルノ | 夫 | インドネシア共和国初代 大統領。 デヴィ夫人を第3夫人に迎え入れる |
カリナ・サリ・デヴィ・スカルノ | 長女 | |
フレデリック・シーガス | 娘婿 | シティバンクのCEO 2021年にインスリン過剰摂取のため死去。 |
キラン | 孫 |
デヴィ夫人はハーフではない
デヴィ夫人は「デヴィ・スカルノ」という名前や日本人離れした顔立ちから、ハーフだといわれることがあります。
しかし、家系図を見てみるとお分かりになるように、デヴィ夫人のご両親は日本人であり、デヴィ夫人は日本国籍を持っていました。のちにインドネシアのスカルノ大統領のもとへ嫁ぐため、現在もインドネシア国籍を保有しています。「デヴィ」の名前は、インドネシア語で「宝石の女神」を意味する「ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ」という正式名に由来しています。
大工の父親が家計を支える
デヴィ夫人の父親・根本兵七郎さんは大工の棟梁をしており、母親は戦時中だったために自宅で子どもたちを守っていました。育ちの良さやセレブ感を漂わせるデヴィ夫人なので、社長令嬢やお金持ちの実家に生まれたと思われがちなのですが、実は貧しい幼少期を経験しているのです。根本八曾男さんという弟がいましたが、早世しています。
夫はインドネシアの建国の父・スカルノ
デヴィ夫人の夫は、インドネシア建国の父と名高いスカルノという人物です。スカルノ氏はインドネシアの植民地時代に民族主義運動、独立運動において功績を残した政治家で、同国の初代大統領となりました。1962年に、22歳だったデヴィ夫人は58歳のスカルノ大統領と結婚。娘をもうけ、約10年にわたってスカルノ大統領を支え続けました。
娘・カリナはシティバンクCEOと結婚
デヴィ夫人の一人娘であるカリナさんは、2005年にオランダにあるシティバンクCEO・フレデリック・シーガスさんと結婚しています。キラン君という息子がおり、オリコンニュースでは、デヴィ夫人が娘家族と良好な関係を築いていることが報じられています。
孫・キラン君は現在シカゴ大学に通っているということで、合格率は4.1%!イケメンでありながら秀才の孫・キランくんを誇りに思っていると、スポーツ報知で語っています。
意外と知らないデヴィ夫人の壮絶な半生
デヴィ夫人といえば『世界の果てまでイッテQ!』などでの活躍が目覚ましく、セレブでありながらバラエティータレントとしても立ち位置を確立していますよね。毒舌なところもありますが、誰に対しても怖気づかずに意見をする姿に、好感を持っている人も多いはず。そんなデヴィ夫人、実は壮絶な幼少期と半生を送ってきている人物です。テレビで見る明るいデヴィ夫人からは想像もつかない生い立ちや経歴を見てみましょう。
幼少期は福島県に疎開
デヴィ夫人は東京都で生まれ育ちますが、デヴィ夫人が1歳のときに太平洋戦争が勃発します。母親とその後産まれた弟と、福島県に疎開していました。父親は大工をしていましたが目を患い、仕事が順調とはいえなかったそうです。母は戦時中だったこと、また足が不自由だったことで働きには出られず、貧しい幼少期を過ごしました。
スカルノ大統領に見初められ19歳でインドネシアへ
デヴィ夫人は19歳のとき東日貿易の秘書という名目で、インドネシアの開発援助のためにスカルノ大統領のもとを訪れました。
そこでデヴィ夫人に一目惚れをしたスカルノ大統領の愛人となり、22歳のとき正式に結婚し第3夫人となりました。
デヴィ夫人がインドネシア大統領の夫人となったことで、インドネシアと日本の関係はさらに良好なものになります。
嫁いだことで母と弟を亡くす
デヴィ夫人はスカルノ大統領に嫁ぐ際、母と弟に「娘がいたこと、姉がいたことは忘れてください」と言い残し、19歳で単身インドネシアへ渡りました。それだけの覚悟を持って、大統領に嫁いだのですね。デヴィ夫人が22歳でスカルノ大統領と正式に結婚した頃、日本では大騒動になっていました。デヴィ夫人に関する嘘が出回り、家族が大バッシングを受けていたのです。
心労がたたった母は亡くなり、弟も後を追うように自死しました。デヴィ夫人は「私は一生、十字架を背負っていかなければならない」と語っています。
参考サイト:AERA
デヴィ夫人の名言がカッコ良すぎる
デヴィ夫人といえば、毒舌なだけではありません。貧しい幼少期と家族の死を経験し、疎開や亡命を経て強く生きてきたデヴィ夫人。そんなデヴィ夫人の半生からは、さまざまな学びを得ることができます。特に反響のあったデヴィ夫人の名言をご紹介します。
- 挑戦する気持ちを失った時が、自分が年を取ったということになるんじゃないでしょうか。
- 私は100歳まで元気に生きようと思っています、全ての敵が死ぬまで
- 結婚したい男性に出会ったら、選ばれるように仕向けたらいい
- 愛する年収200万VS愛がない年収200億、結婚するなら後者
- 私のエネルギーは怒りから来てる
まとめ
デヴィ夫人の家系図について調べてみました。デヴィ夫人の実家は裕福だったわけではなく、むしろ貧しい幼少期を過ごしてきたことが分かりました。10年間の結婚生活の中で、インドネシア建国の父・スカルノ大統領を支え続け、かけがえのない一人娘を育て上げたデヴィ夫人。現在は孫にも恵まれ、自由に恋愛をしながら充実した日々を過ごしているようです。